代々木公園にて紅梅が、春はまだかと咲くころ、私も大学を退任し、大学院とアカデミーの講座を残して、今年は主要な役職もクリアしました。さしずめ、春待ち人の気持ちですが、目指すは遊歩人(ユーフォニスト)の生き方。地球と知球のエッジをゆっくりと巡りたいと思っています。これまでの「ユートピア通信」を「ユーフォニスト通信」に改め、送りしたいと思います。

リュクサンブールの森にて

サンペールのアパルトマンでは、本を読み、午後にはリュクサンブールのすっかり紅葉した森を散歩する、静かな時間を過ごしています。


リュクサンブールの森で、10年ぶりにボードレールに再会。都市の憂愁を詩に歌っていた若きボードレールはそのまま、苦味走っている。


私は少しは角の取れた人生を送っているのか、ボードレールの像の前で、松ぽっくりのように思案していました。

『東京、鎌倉、パリ・・私の三都物語』

 渋谷講演通り、パルコパート2の跡地に立った。いま活躍している多くのファッションデザイナーがこのビルから孵化された。それらの事業のドジョウをセゾンの総師・堤清二らが創った。旧態然とした業界を、商業ビルのフロアーから変革させる、その発想は複雑系だった。結局セゾングループは解体したが、構想の土壌も崩壊したのか。『セゾンの考古学』、ふとそんな事を考えた。無論、フーコーの『知の考古学』が下敷き。東京には、監獄ならぬ百貨店や大学が集積し、社会知の鉱脈をなしている。ピラミッドやマヤ遺跡も魅力だが、その点東京が面白い。

 

 5年ほど前に、鎌倉の極楽寺に小さな「構想博物館」を創った。鎌倉に住まうと町の面白さが分かる。国際観光都市も夕方5時を過ぎると、商店街は店を閉め住宅地も森閑となる。なぜならこの町は、経済も大切だが暮らし優先の「生活都市」だから。世界遺産登録は保留だが、生活遺産をテーマにしたら、比類がない。それも構想博物館での研究課題となる。

 

 パリを最初に訪れたのは20代の終わり。貧乏旅行で。食事はほぼ立ち食い。ある日迷い込んだ路地は、パサージュだった。「遊歩者は目覚め、集団は夢見る」とベンヤミンの言葉。それからパサージュ研究が始まった。今年もまた、しばらくパリ暮らし。

 東京、鎌倉、パリと三都市を螺旋階段を登るように遊歩す。螺旋の先に何が在るのか、まだ見えない。

 

宇宙を構想し、身の丈で生きる

宇宙に浮かんでいる私たちの島々を、どう生かすか

本年のテーマは、「宇宙を構想し、身の丈で生きる」ということにします。すなわち、地球や地域の未来を考えることは、そのまま身の回りや、自分自身のライフウエアを考えることに通低するということです。一日一日を実感として着実に生きながら、思念の先は宇宙に向かっている、言ってみれば宮沢賢治のような生き方でしょうか。

 

司馬遼太郎の“道”

  日本道路建設業協会という所から原稿依頼があった。機関誌に“道”に関するエッセイを書いてもらいたいというのだ。協会は当然のことながらハードな道路を扱っている法人であろう。しかし、私はその話を聞いたときに、ふと<司馬遼太郎の道>という言葉を思い浮かべた。司馬遼太郎とは、終生“道”をテーマにしてきた作家ではなかったか、と思いついたのである。存命する限り書き続けたであろう『街道をゆく』は、紀行文というよりは地球上の道に集約した人類文化を描こうとした「道の文化史」ではないだろうか。このライフワーク以外でも、明らかに“道”がキー概念になっている作品が多い。


  例えば代表作の1つである『坂の上の雲』という小説がある。周知の通り、日露戦争で世界中が負けて当然だと思いこんでいた日本海戦を奇跡的勝利に導いた秋山好古・真之兄弟を中軸に描いた物語である。司馬遼太郎はそれまでの歴史家の明治のイメージを書き換えてしまうほどにこの時代に思い入れていた。列強に迫られていた日本は必死になってそれらの国々に肩を並べるために邁進した。伊藤博文や山県有朋らが懸命に不相応といってもいい志を持って建国に突き進んだのだ。その姿はけなげでもあり、また悲壮感に満ちたものであったろう。その意志をまっしぐらに進んでいけたのは、坂の向こうに明るく輝く希望のような雲が浮かんでいたからである。虹色の雲(希望)を望むことができる幸福な楽天家の時代、それが明治だったと司馬遼太郎はこの本を書くに当たって述べている。

 

『坂の上の雲』とは、その雲の下にしっかりした坂(道)を描くことのできる時代であり、そのたどるべき“道”の小説でもあったのだ、と私は思う。もう1つの代表作『龍馬がゆく』もまた、その革命児・龍馬が疾駆した若きそして短き日々の“道程”の小説である。

 

  私が好きな作品は、1991ー92年に書かれた『草原の記』である。1973年にモンゴルを訪れた司馬遼太郎の、たまたま通訳をしたモンゴル女性を巡る数奇に満ちた物語である。そのツェベクマさんはシベリアで生まれ、日本の統治下にあった満州で育ち、毛沢東の中国を生き抜き、最後に故郷のモンゴルに帰って気丈に生きた女性である。その半生に、大陸生まれの私には不思議な共感があって、読んだ後にあふれ出る涙を止めることができなかった。チンギス・ハーンが騎乗して駆け抜けたモンゴルの草原には、道など付いていないであろうが、その草原にモンゴル女性のツェベクマさんは、自分で苦難と希望に錯綜した人生という道を縦横に描いたのであろう。私にはやはりこの物語にもしっかりと、見える道が あった。

 

  今、私は日本という国が行き暮れているように思える。その思いは司馬遼太郎にも確かに存在した。『韃靼疾風録』を最後に、小説を止め『街道をゆく』を進める傍ら、評論活動に明け暮れた。モチーフは幾つも持っていながら小説表現しなかった明治以降の日本と21世紀に向かうべき日本の道を、直裁、真摯に探ろうとしていたのではないだろうか。その日本の向かうべき“道”のために、「まるで青年のように司馬さんは思いつめていた」と奥さんの福田みどりさんは語っている。偉大な作家を失ってしまった私たちは、今再び叡智を持って日本と己の“道”について探求しなければならない時代に直面している、と私は書棚の司馬遼太郎の著作を眺めながら思うのである。